今日は早く起きすぎたので、ここのところ気になってたテーマをエントリーしてみます。

昔から思っていたんですが、愚痴を言うのはダメなことなのか、不平不満を口にするのは悪い事なのかって言う話なんですが、論点はいわゆる自責か他責かというところにまで飛び火して、結果どんな原因があるにせよ愚痴は言う方が始末が悪く、逆に愚痴を言われる方は、仮にどんな間違ったことをしていたとしても、責められにくい立場を保てるような教えとなって、人の文化の根底に根差しているように感じます。

でも実は、愚痴や不平不満を言ってる人の中には、自分では選べない決定事項について、愚痴や不平不満を言ってる場合だってあるわけで、つまりはその決定事項のプロセスや背景について理解が乏しいことが原因のときがあっても不思議じゃないと思います。こういう場合に、なぜ納得できない決定事項が行われたのか、きちんとした理由を聞きたくても手段がないと、愚痴や不平不満という姿を借りて「SOS」が発信されてるんじゃないのかなと思います。(正確には思うようになりました。)

ではこの愚痴や不平不満に対して、きちんと向き合って、決定事項が決断された背景やプロセスを説明した場合はどうなのでしょうか?当然この場合は理解させるための最大努力が行われていたかはすごく大事な前提ではありますが、相手の決定事項を受け入れないというのであれば、この先は相容れないと判断したくなって当然です。つまりこの時初めて、愚痴や不平不満を言っている人は、決定事項を決断した側と同じだけの判断材料を得たうえで、意見ではなく自分側の決断を迫られると思います。

例えば、これが国であれば話は別ですが、民間の会社であれば、会社の方針についてきちんとした説明を受けたうえで、その方針に対して何らかの不満がある場合は、その会社を去り、自分が納得できる方針を掲げる会社に転職するか、そんな会社に巡りあえないと思うのであれば、自分で会社を作るのか、決断を迫られます。 しかしそのどちらも選ぶことをしないで、方針に納得しないまま会社に残り、自己中心的に発した批判は愚痴だとしか言えません。

これは方針などに限らず、意思疎通の場でよく起こっている、認識の齟齬なのだと思います。つまり「ある考え」を持つ人Aさんがいて、この考えを周囲と深く共有することをしていないとき、Aさんに対して起こるBさんの批判は、Aさんがまず「ある考え」についての説明責任を果たしているかどうかで、「SOS」となったり、単なる愚痴となったりするのだと思います。そのうえで、Aさんが説明責任を果たすのか、それともBさんがAさんとの考え方の違いから距離を置くと判断するのかは、どちらもお互い自由に選んでよいわけです。

もしそれでもBさんが批判を続ければ、他責による性質の悪い愚痴でしかないでしょうから、ここで初めて愚痴は良くない、不平不満を口に出すもんじゃないと言えそうです。仮にAさんが会社の方針を決めて、Bさんはその方針に従うかどうかを、Aさんから判断材料をきちんと与えられたうえで、判断できる立場にいるなら、Bさんが自らの都合で会社に残ると判断したうえで、Aさんや会社を批判すれば、AさんがBさんを足を引っ張る有害な人物だとマークして、その後の判断を下すようになるのは、事業継続上、至極当然な危機回避的判断だとなるわけですね。

こう考えてみると、方針や意向の説明責任をきちんと果たしている人がどのくらいいるのでしょうか?少なくとも僕は、会社の方針を明確にしていくうえで、批判や反対をされるのが怖かったり面倒くさいと思う時に、説明を躊躇してきてました。言い訳として、まだあなたたちには説明してもわからないだろう、とか、どうせ責任を取るのは自分なのだから、あなたたちに説明しても意味ないんじゃないの?とか、そういった理由をかこつけて、説明責任から逃れてたかもしれません。

そのうえで、愚痴や不平不満を言うなというのは、少し無理があるように思います。でも仮にきちんと説明して、それでも反発する人に対しては、毅然とした態度で自分の主張を貫いてよいとも思います。判断材料と決定権はきちんと平等にそろえられていたかどうか。これだけのことが前提から外れただけで、取り返しのつかないロスが生まれることがあると思います。


ちなみに僕自身はどうなのかと言われたら、別に愚痴(SOS)の少ない方ではないかもしれませんが、理解しようとしてそれに必要な判断材料をきちんと提示してくれる場合には、おそらく自分の判断として腹をくくって決断してきたつもりですし(違ったらごめんなさい(笑))、僕はそもそも自己中心的な人間ですから、自分に決断するための材料がなければ、平気で不平不満を言いますし、愚痴だと言われても言いたいことを言ってしまう方です。

とまあ自分を正当化するためでもなく、かといって愚痴を言う人を擁護したいというわけでもなく、きちんと前提(判断できるだけの正当な材料を用意して、決断はお互い自己責任で行う)をはずさないで、方針や意向をきちんと理解してくれる仲間が大勢集まれば、愚痴や不平不満は自然と少なくなり、代わりにそれは「SOS」と判断されるようになって、よりコミュニケーションの活性化された力強いコミュニティ(組織や集団)になるのかもしれませんね。

松田