つい先日の話ですが、コンサルタントの赤澤氏との食事の席で、「わかった」と分かったつもりになる人ほど思考停止して成長しないという話になりました。正直僕もそういうタイプの人間だと思ってるのでおそるおそる「俺は大丈夫かな?」と聞いたら、「あんたは何教えても納得しないで自分で調べ出す」と言ってもらいました。

安心したわけではなくて、実はその自分で調べた先に「わかった」となるタイプの人間だから、結局自分も危険だなと思っています。ただなんでこんな話題になったかというと、頭の良い人は確かに物事をシンプルに砕いて話してくれるんですが、そういう頭の良い人ほど自分自身では超複雑に分解したり優先度やバランスをとって最適解を導いてるということのようです。

この最適解というのが大事でして、これはある条件下で出せるもっとも最適な解という意味です。単純な問題ではなく実学では必ず登場する前提条件という個別の障害をクリアしたうえで出せる最適な答えのことですね。つまり必ずしもすべての条件に当てはまるということではなく、環境や条件を考慮して、現状出せる最適な回答というのは思考プロセス(考え方)が重要だと言うことのようです。

話を戻しますと、頭の良い人は他人に伝えるときに、現状に則した形で最適解を教えてくれるのですが、こういう頭の良い人の最適解を思考プロセス抜きにそのまんま受け止めて、いついかなる環境でも方程式が機能すると思い込んでしまうと、実は理解しているのではなく理解したつもりになってしまっているということですので、条件や環境が変わると途端に機能しない解を盲信する状況になってしまいます。

【例】
トイレ掃除をするとよい会社だというが正直なんの因果関係もない。周りの企業がトイレ掃除をしていない環境ではそれが差別化になるが、どこも掃除をしている環境では、差別化ではなくコモディティ化してしまっていてそれ自体が業績向上との相関関係は薄くなってしまっている。

さて、この理解したつもりになった人がなぜ思考停止するかというと、「素晴らしい人が言っていたことは必ず素晴らしい」というその素晴らしい人が最適解を導き出すための思考プロセスを見落として、結論だけをシンプルに受け止めてしまっているため、最適解を万能解と認識し、自分で考えるというのをやめてしまう可能性があるからだと思います。(だれだって早く理解したいですから)

こうなると大変です。正直考える力がない人が、誰々がこう言っていたというわけのわからない前提をもとに他人の最適解を万能な正解であると固定化し、それを周囲に吹聴したりするわけですから素直に笑えません。仮に「大きな声で挨拶をすれば喜んでもらえる」と決めつけられても、少なくとも僕個人の意見ではうるさい声で挨拶されるのはこの上なく不快です。(威圧的なあいさつでごまかそうとするのは、小手先のテクニックに走りすぎててせこさを感じます。。。)

というように、答えを焦る気持ちが他人の最適解を万能解だと錯覚させて、またそれを盲信的に信じ込むだけでなく周囲の他人を巻き込みだすと弊害はエスカレートしていってしまいますよね。僕もこういう部分が少なからずある人間ですので、どうしても盲信的になることがありますが、ロジカルに考える習慣を意識するようになってからは随分と減ってきたのかなと思います。

なんであれ、思考停止している自分に気付ければ幸いですが、不思議と人間は思考を停止していることへの自覚を持てませんし、まさか自分はと都合よく解釈したくなる性質のようです。つまりこういった問題に善処していくためには常日頃から自分の持つ答えに疑問をもったり、別の考え方の人の意見に真摯に耳を傾ける習慣を持つ必要があるかもしれませんね。

「言うは易し、行うは難し」

習慣化するまで忍耐強く意識するしかないですね。

松田