儒教的率先垂範とも言うべきリーダーシップ理論がありますが、耳心地は良いのですが誰からも嫌われないような生き方は、実は誰からも後ろ指を刺されるべき、表面的な偽善と欺瞞の入り混じったものであるかのように思えます。組織のTOPとなる人があまりにも誰の耳にも聞こえの良い事を言っていると、政治的パフォーマンスであることがとてもよく強調されている気がします。

ですが、大衆心理としては、そのような聖人君子にリーダーであってほしいという期待と、わかっていてそれでも信じていたいという希望があるものだそうで、それは承認された偽善と欺瞞だとも言い換えれると考えられているそうです。しかし、将棋で王将が歩よりも前線に出て戦うことがゲームの定石とはならないように、TOPには期待されるべきポジションとその言動への責任が必ずあると思います。

組織の危機的状況において、未来に期待を持てる決断を決行していくためには、少なくともすべての人を救う決断ではなく、”ノアの方舟”に誰を載せるかということに対する責任が発生し、時に人から疎まれ蔑まれながらも毅然とした自分の信念に基づく決断を敢行していかねばなりません。

わかってはいるけどできない、変化を恐れる集団心理をどこまで理解し、またその心理を切り崩し、希望を与えながら強い意志の共有を浸透させていけるかは、TOPである人の決断力と行動力に全てがかかっているのだろうと思いますし、それだけはTOP以外にはどうやってもできないことだとも思います。

実際に現場で働いている人たちの多くは、何が正しく、何が非効率で、何が不利益に直結しているのか、直感的に感じ取っていることが多いのではないかと思います。しかしそれらの改善への提案は、変化を恐れる多数の仲間や理解に乏しい人たちを説き伏せる力がなければ、足踏みしたまま不安を忘れ去るという解決方法で、前進できないままなんとなく集団心理に迎合してしまっていると思います。

それらをより正しく自然体で、かつ変化への対応に積極的な集団となれるように変えていくのかは、風土の改革なしには不可能であり、その改革は誰からも好かれることを選択しない、より政治的でかつ戦略的なリーダーシップを発揮できる意思の強いリーダーによる決断によってなされていくものだと思います。 そしてこの風土の改革とは、変化を恐れる既存の文化や大衆心理を、”破壊と創造”によって切り拓くことを指しています。

”君子”とはなろうとしてなるものではなく、立場によって形成されていく性質のものであり、自分が”君子”になることが目的ではなく、集団や組織を本来あるべき姿へと導き、その決断や行動に責任を持つための「勇・知・仁」を兼ね備えた人が、役目を果たしていくことによって、自然に”君子”と言われる”人格”に近づいていってしまうものではないかと思います。

ただしやはり、それはすべての人を幸福にしていくという性質のものではなく、より多くの人を幸福にしていけるであろうと信じる方法を断行できるということであって、全能といった類のものを目指すということではないような気がします。己を知り彼を知ることが肝要であって、合理性もまた”君子”に近づく手段ではあると思います。

都合良く人を評価するための”偏った道徳”や”偏った任侠”といった、独善的で集団の他責化の温床となるような大衆文化、集団心理をいかにうまくすり抜け、また上手に扱いながら、いかに戦略的な合理性をもって集団統制していけるかは、今後の日本社会全体の課題なのかもしれませんね。つまりそういった”お上”に対する忠誠心と引き換えに、目先の問題に目をつむる人たちとどのように付き合っていくかということです。

でなければこの国のリーダーたちは、かくも不条理な責任を背負うことから生涯逃げられないと思いますね。

松田