ロジカルシンキング(垂直思考)・ラテラルシンキング(水平思考)とは別にクリティカルシンキング(批判的思考)というのがあるそうです。最近論理的思考とは何ぞや、と勉強を始めたばかりですが、早速皆さんからいろんなアドバイスを受けて、型にとらわれないように思考の角度を変えながら偏りの少ない思考になるように試行錯誤中です。

3つの考え方の特徴的なイメージから、僕が勝手に連想した図を共有しますね。ただし、あくまで個人的イメージですので。シンクロしない場合は個別にアドバイスくださいm(_ _)m

【僕の中のイメ~ジ】
思考パターン




















【ロジカルシンキング】wikipedia

一つの物事を深く掘り下げて考えるのがロジカルな考え方で、仮説を立てる、検証する、比較対照する、書き起こす、切り分けるなど、まずは情報を目に見えるようにし、それをフローの時系列や優先順位などで切り分けていくというというものだそうです。PDCAのもとになる思考法でしょうね。(もっと他にもありますけどね)
例えば僕はWEBサイトのデータ解析を、かれこれ3年以上ほぼ無休でライフワークとして行っていますが、 おかげさまでロジカルなものの考え方は、データ解析では教科書の考え方なので、比較的習慣的な思考法として身についている実感があります。もちろんロジカルひとつとっても、もっと細分化した手法が存在していて本当に奥の深い思考法だと思っています。

【ラテラルシンキング】wikipedia
水平思考と呼ばれる思考法なんですが、とっても柔軟な感覚を必要とする思考法だと思います。全く別の角度から考えてみたり、全く別の事柄で適応されるパターンを当て嵌めてみたり、ロジカルが直線であればラテラルは曲線的な思考法のような感じがしてます。(あくまで個人的主観ですので悪しからず。。)
モダンスタンダードのサイトを考案した際のことですが、あるアパレル企業のブランドカラーやイメージを取り入れることで、従来の不動産企業のイメージから少し違ったイメージを与えるサイトができればいいなと、考えていた時期があります。これもおそらく、ラテラルシンキングの一種である、”概念拡散発想法”と呼ばれる思考法の一つだと言えそうですね。

【クリティカルシンキング】wikipedia 
これはとっても面白い思考法ですね。批判的思考法と呼ばれているそうです。”誤謬(ごびゅう)”を精査していく作業が中心なのですが、ここにじつはちょっとしたコツがあるようでして、「好意の原則」というものがあるんですね。まあまあ世の中には、批判ばかりで非生産的な人がいるのも事実ですが、彼らの考え方とクリティカルシンキングは別のものだという線引きになると思います。

少し「好意の原則」についてお話したいので、Wikiを抜粋させていただくと、
「批判(吟味、省察)を行うには、まずはその対象や問題をきちんと理解していなければならない。十分な理解の努力なしに行われる批判は、たんなる誤解や、挙げ足取りや、本質的ではない議論にしかならない。
言語学者が現地言語を理解する際のように最初から「相手がいっていることが正しくない」と想定してしまうと、相手を理解することもできず、また「相手のいっていることが正しくない」と結論することもできなくなってしまう。そのために、好意の原則(善意解釈の原理、principle of charity)が必要とされる。
この好意の原則を平易にいえば、ひとの発言を理解しようとするとき、そのひとの言っていることを基本的に正しいとすることである。批判的思考を行うためには相手のいうことを正しいとみなしたうえで、さらにつじつまが合うように解釈しなければならない。これは「共感的理解の原則」ともいわれ、相手を批判する前に自分の理解そのものを批判の対象とすることである。」

ちなみに「好意の原則」を欠いた批判的思考としては、”論点すり替え”というものがあるそうですね。「下衆の勘繰り」・・・・・のことでしょうか?気を付けたいところです。(笑)

【本質を見抜く力】
といったように、上記3つの思考法を少しでも考慮したうえで、情報に接したり、コミュニケーションの場にお邪魔すると、本当にたのしくその場を拝見させていただくことができると思います。

ところがこれは最近僕が痛感したことで、忘れてしまいがちなことですが、自分だけ論理的な思考によって物事をとらえていては、少しさびしいものですね。本質を見抜く力とは、虚像をあらわにさせるだけの力がありますが、それを闇雲に行使したところで、正直、都合の悪いことを隠したがる人たちからはむしろ敵視されます。このような状況に追いやられてしまってる人を見ると、多少似たような共通点もある気はします。。。

自分を含む彼らの中には論理的思考であることを隠し、「能ある鷹は爪を隠す」なんていうことで、自分なりに落としどころを見つけているのかもしれませんが、例えばですが、池上彰さんならちゃんと解説してくれるでしょうね(^^)
それがまた解説能力というものであって、こちらの方がはるかに重要なんだと思います。自分だけ真実を知っていても、所詮マイノリティ(社会的少数派)の主張の領域を出にくいものですよね。できれば共通認識にまで持っていく努力があってこそ、本質を見抜く力は個人的にも社会的にも有益に働くのかな、と思います。

【ということで】
ですので、自分たちにできる最上級は、そういう思考法があるということ(論理的思考)を、大切な方々にはできる限り知っておいてもらえるよう、かつ強要ではなく興味を持ってもらうために、日々の努力が必要なのかな?と思うようになってきました。
それで少しでも周囲が些細な出来事から不幸に巻き込まれたり、誤謬に踊らされたりすることがなくなれば、それだけで本質を見抜く力を身に着けていくことそのものの行為が、大いなる意味を持ち始めるのかもしれませんね。

松田